最終回「冒険家のこころ」
みなさん、こんにちは!
プロスキーヤーの児玉毅です。
すっかり皆さんに遠征から帰ってきた報告をするのが遅れました。
栗城隊は5月28日に無事帰国を果たしました。

5月23日にベースキャンプをたたんだ栗城隊は、
来る時は3日がかりで歩いてきたルートを
ビールへの執念だけをエネルギーにして、一気に1日で歩いた。
(この強行スケジュールによって、記録カメラマンの辰野くんが
膝の古傷をやってしまい、搬送されることに・・・)
その後、ネパールいちのリゾート地、ポカラで1泊し、翌日カトマンズへ。
ポカラでは緑の芳しい空気を腹いっぱいに吸い、
美味しい日本食レストランで幸せなご馳走をいただき、
色とりどりの花々のように鮮やかに彩られた店をめぐり、
レイクサイドにあるカフェのオープンテラスでキンキンに冷えた
ゴールデンドリンク(ビール)を喉に流しこんだ。
高山から里に降りてきた時、むせ返るほど甘い空気の存在に気付く。
森の緑や花々の色彩が視界にどんどん飛び込んでくる。
市場には新鮮な肉や野菜が並び、エネルギッシュに人々が行き交う。
当たり前だと思っていたひとつひとつに、
ただただ感謝の気持ちが浮かび上がってくる。
下山した時のこの感覚こそ、ひとつの麻薬のようなものだ。
本能的に水が旨く、飯が旨く、空気が旨く、人がありがたく、祖国をありがたく思う。
栗城くんが天丼を食べながら無意識に「生きてて良かった・・・」と言っていた。
「生きてて良かった」という言葉を冗談のように良く使うけど、
本当はこういう時に使う言葉なんだ。

高所登山は、はっきり言って危険だ。
「そんな危険を冒してまで何故?」と多くの人に言われる。
おっしゃる通りである。
冒険家が自ら危険を冒すことを「命を粗末にしている」という人もいる。
果たしてそうだろうか?
冒険家は、日常では当たり前のような「生きる」ということに、とことん執着する。
「生きる」ためにあらゆる努力を惜しまない。
一日一日を真剣に生きることを自分自身に課している。
「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」という問いに
「なぜならそこに山があるから」とイギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが
答えたのはあまりにも有名だ。
要するに議論するだけナンセンスということだ。
僕が「何故滑るのか?」と聞かれても、上手くこたえることはできない。
「何故生きるんですか?」と聞かれるのと何ら変わらない。
でも、ただひとつ言えるのは、チャレンジし、困難を乗り越えた時、
「生きている」という甘味を体の細胞全てで感じることができる。
その甘味は困難な挑戦であればあるほど強かったということだ。
栗城くんの次の挑戦はチョモランマだ。
世界最高峰(標高8,848m)の単独無酸素登頂を狙っている。
8,000m峰の3つ(チョーオユー、マナスル、ダウラギリ)を
無酸素で登っている栗城くんだが、
8,400m以上の山はもうひとつ次元が違うというのが高所登山の世界では常識となっている。
7,000m台前半に最終キャンプを張ってアタックする今までの山と違い、
エベレストでは8,000mに近い高度を最終キャンプとしてアタックすることになる。
当然デットゾーン(7,500m以上)にいる時間が長くなり、
過酷な条件が刻一刻と肉体を蝕んでいく。
無酸素なので、スピードが重要だ。
今の予定では世界で初めて無酸素でジャイアンツ(世界に14座ある8,000m峰)を
全て登った不死鳥とも呼ばれたラインホルト・メスナーだけが辿ったルートを使うのも、
とにかく8,000m以上にいる時間を少なくするためだ。
とてつもなく困難な挑戦である。
でも栗城くんは「とてつもなく困難ではあるけど、不可能ではない」と言う。
メスナーは確かに超人だったが、彼が不可能ではないということを既に証明している。
今まで歴史に残る冒険は、もっともっと不可能だと言われてきたはずだ。
エドモンド・ヒラリーが世界で初めてエベレストに登った時も、
三浦雄一郎先生が世界で初めてエベレストのサウスコルからスキー滑走した時も、
前例はひとつもなく、不可能だと思われていたのだ。
「苦しみは大きければ大きいほど、それを乗り越えた時に喜びに変わる」
栗城くんが何度も口癖のように言っていた言葉を思い出した。
僕も超プラス思考な男で通ってきたが、栗城くんのプラス思考はすさまじい。
若干26歳で、自分のやりたいことに真正面から立ち向かっていく栗城くんに、
おもいっきり刺激を受けた。
人のサポートに徹することは初めてだったが、
同じプロとしていい刺激を受け、プロフェッショナルなスタッフから様々な
知識と技術を学ぶことができた。
そして、ダウラギリ麓での生活の中で、自分がいかに山が好きで、
スキーが好きなのかを再確認することができた。
山の生活に慣れるのは、少し時間がかかる。
しかし、町に帰ってくると、ものの1~2時間で都会の生活に慣れてしまう。
物に溢れ、情報に溢れ、人と人とを比べてしまうような社会で、惑わされていく。
厳しい自然の中で、たいまつの灯のように力強く生命が燃え盛るのを感じることがある。
しかし、都会の雑踏に紛れていると、果たしてこれが現実なのか夢なのか、
生きている実感が乏しくなる瞬間がある。
自分のアイデンティティがどこにあるのか分からなくなる。
こんな時、僕は山奥に一人ぼっちでいるときよりも孤独感を感じてしまう。
そして、また山を目指したくなるのだ。
おわり